自論だけど、女は ”カップ” じゃねぇ。
例外もあるだろうけど、人って最初に見た何かの印象が、後々の人生に多大な影響を及ぼすもんだ。それが初見か、結果的にか、自分の好む物(者)、ましてや好意をもつ物(者)であれば尚更だろう。そういったところは、会話中で語られる人様の話の中から、それらがその人にとって ”役に立っている” か ”枷や仇” になっているのかが計り取れる。大半は後者だと感じる。それだけ、皆、極端に視野の狭い ”殻” の中で生きていることを痛感さぜるを得ないんだよね。
友人、知人と話していて、完全には不可能だけど、「この人のバックグラウンド(人格形成の礎)って何だろ?」 ってのを俺なりに考える。比喩的に長い糸(話してる人の長ぁ~い話)を巻き上げてて突然引っかかりがあったり、平坦な道を走っていて時折凹凸があったり…誰でも面倒くさいところは回避したがるところは必ず見えてくる。と言っても、少なからず俺もそうなんだょ。だけど、一人の人間がせっかく出会った”良い機会” を避けるもんだから、現在を形成するに至ったバックグラウンドがその意味を成さないんだよな。人知れず生まれてしまった呪縛とも言える、逃避が転化した先入観。それを誰もが自分に言い聞かせているようだ。
つまりはこうだ。女性が何カップか?の判定を制しているのは、筆下ろしの方が何カップだったか?ぢゃねぇかなw んな事ぁ無関係で ”女は商品だ” 志向なら、単にデカい派 or ちっこい派 or ビッグ乳輪派 or ハト胸派 etc…ってな感じな人も居るのかな。
一応、”D” は欲しいね。もっと言うと、ハト胸の ”D”(絶対譲れねぇな)。
まぁ、十人十色だな…
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